2022/06/27 23:33

高円寺・自由帳ギャラリーにて開催された、リカシツトショシツズコウシツ5に出展いたしました冊子の内容です。
展示テーマにあわせて、理科室、図書室、図工室それぞれについて思い出すことなどを書き留めてみました。

 小さな古い学校を想像してみる。だれもいないのに机もいすもそっくり残っていて、風が吹くと、かつてそこかしこにいた生徒たちの軽い、やさしい足音や、小声で話したり、花のように笑いあったりしている声が聞こえてくるように思う。それはカセットテープに刻まれた磁気データが再生されて音楽になるように、学校という場所に記録されているものだ。
 わたしたちはかつてそこにいて、それぞれの時間を過ごしてきた。教室のいすのがたつきや、天井に映るプールの水の模様、保健室の前を通った時の消毒液のにおいや、ひび割れたようなスピーカーからのチャイムの音。そんなものがだれでも心のなかに一つくらいは残っているかもしれない。もしくはそれが現実には経験していないことであっても、小説やまんがのなかで語られたり、映画やテレビアニメの中で描かれたいくつかの情景は思い出せるのではないだろうか。体験をしていないことにも、わたしたちはノスタルジーを感じることができる。昭和の街並みに落ちる夕陽を引くでもなく、入ったことのない屋上へのあこがれをかすかに残すものも多いだろう。
 理科室、図書室、図工室、と口の中で呟いてみる。用事がなければ入れなかった特別な教室たちは、今もなんだか心の中にふしぎな作用を及ぼすようだ。鍵のかかった部屋も、想像の中では自由に入り込むことができる。だれもいない場所で静かにカーテンだけが揺れている。現実には存在しないその部屋たちをゆっくりと見て回って、心をひかれたものを書き留めてみようと思う。
  理科室

 大きな、流しと水道のある机と、背もたれのない丸い座面のいすが並ぶ。なんのにおいなのかはわからないが、かすかに薬品じみたふしぎな香りがした。二段になった大きな窓からは光が差し込んできて、理科室特有の微かに毛羽立ちのある暗幕が緑の帯で留められている。
 部屋の奥には木とガラスで作られた棚に、ビーカーやフラスコやそれを洗うための細いブラシ、束にしたチューブや、電圧計といった実験器具。顕微鏡が収められた重い木箱が並んでいる。端には追いやられるようにして、もう授業でも使われることもないだろういくつかのガラスびん入りの標本。あまりに長い年月をここで過ごしているので、ホルマリンはやわらかなはちみつ色に色付き、中の魚や、腹をさばかれた蛙が静かに本来の色を失いながら眠っている。
 鍵付きの棚だけれど、今は自由に開くことができる。アルコールランプを取りだし、燃料を満たし火をつけた。炎は奇妙に重たげなふうに揺れている。ものの燃えるにおいと、独特の甘い香り。液に浸された白い芯がゆがんで太く見える。屈折。分厚いガラスの蓋を乗せると火が消える。
 二段になった黒板には、今は何も書かれていない。ただかすかなチョークの跡が残っていて、だれかがそれを消した手の動きをたどることができる。右へ、左へ。何を語っていたのだろう。
 砂のできる仕組み、海の水は月に引きずられて満ちて、すべてはゆっくりと酸化していく。理科という言葉の中に秘められたこの世の秘密のはしきれ。壁に貼られたままのポスターがその手掛かりの、断片的なものを記している。古い、いまはもう見つかっているものの欄も仮定として書かれた元素の周期表、植物の光合成の仕組み。雪の結晶の拡大写真。
 黒板の横の小さなドアの向こうは理科準備室で、小さな部屋の中は棚でぎっしりと埋まっている。使用頻度の少ない奇妙な形の実験器具や、ガラスびんに入れられた粉たち、何らかの試薬や色あせた紙箱達、取り残されたように置かれたアンモナイトが出番を待ちながらひっそりと静かに並んでいる。
 一つを開けてみるとかすかにイオウのにおいがする。実験で作られたらしいミョウバンの結晶が、ガラスのビーカーの中に吊り下げられたままである。その横には箱に入れられた、手作りらしい鉱石標本や箱の中に作られた粘土細工のジオラマが無造作に積み上げられていて、いつから手付かずなのか、古い紙やほこりのにおいがする。棚の隅にはちょうど子供くらいの大きさの骨格標本が俯く形で吊り下げられていて、空の眼窩は壁の向こうの世界を見通すように深く、美しく並んだ歯は今にも震えて、この場所にまつわる話を語りだしそうに見えた。空っぽの肋骨のなかが妙に寂しい、花でもなんでも詰め込んでやりたいほどに。それが本当になにかを喋りだす前に、わたしはそこを離れることにする。
  図書室

 ドアを開けると思ったよりも明るいので面食らう。向こう側の壁には窓があって、そこから強い陽ざしが差し込んできていた。図書館のような人工的なものではない本物の太陽の光。窓の下には背の低い本棚がぎっしりと並んでいて、低学年用の、大判の絵本のような本や、すこし厚い形のそろった本が入れられているのがわかる。かすかに燻された消毒薬のようなにおいと、古い本がたくさん置かれているときの特有の香り。二つほどの丸いテーブルと、細長いものがいくつかその前に置かれていて、きれいに整えようとしたのだろうけど、不揃いになってしまった背もたれつきのいすが並んでいる。みんなまた本を読みに来る生徒たちを待っている様子で、今にも背にした扉ががらりと開いて、だれかが入ってくるのではないかと思えた。
 壁際の手前には緩くカーブした形のカウンターがある。数字を入れ替える形の白い卓上カレンダーが置かれていて、今日と返却期限である一週間後を示す日付がわかるようになっていた。貸出業務をおこなうためなのだろうか、カウンタ―の中にはいろいろと細かいものが置かれていて、不揃いなペンやホチキスなどがひっかけられたペン立てや、日付のはんこやスタンプ台、カウンターの中にいただれかが読んでいたらしき本などが雑然とあった。
 机は長方形の形の教室の概ね半分ほどを占めていて、もう半分は等間隔に置かれた本棚で埋まっている。窓の逆側、廊下の裏に当たるところには文庫本の並ぶ薄い本棚になっていて、同じサイズの、色とりどりの背表紙が、いつでも気軽に手に取れと話しかけてくる。黄色、薄紫、水色にやわらかなオレンジ。等間隔のほうの本棚はハードカバーで満ちている。小説だけではなく、図鑑や、偉人の伝記、子供向けの歴史書、なにかの仕組みを教えるもの。わかりやすく書き下された古典。ゆっくり見ていくと様々なものがあるのがわかる。箱入りの本の背を指先でなでるとかすかにほこりの気配をまとったざらつきが残った。ぐるっと回って窓に向かった棚を見ると、陽が当たるところの本の背が焼けて、一面青くなってしまっている。微かな凹凸のある透明な糊付のフィルムで覆われているのが、ふしぎに光って、凪いだ湖の面のよう。一冊を手にとって開いてみると、背表紙の裏側に読書カードがそのまま残っている。紙製のポケットから抜き出して、日付の刻印を見ていくと、数年おきにだが打たれた数字が、その時々で揺れて波打っていた。長い時間をかけてこの本が人の手に渡った回数を数える。わたしで十五人目だった。改めて子供用の小さないすに座って、本文を開いてみる。古い紙のにおいに、かすかにまだインクのものが混ざっているような気がした。きっとだれかがここでやったようにページを繰っていく。物語のささやきがはじまり、わたしの心は図書室を離れ、本の中に沈んで、飛んで、落っこちて、夢を見て、旅立って、帰って、ゆく。
  図工室

 先に行った教室とはまた違い、がらんどうの大きな箱のような室内に、窓の下に取って付けたような流し場がある。蛇口が浮いたように光っている。分厚い木でできた長方形の机と、背もたれのない頑丈ないすが並んでいて、いすは脚の間に板が渡されていてずっしりと重たい。そこに座って机を見ていると、絵の具のはみ出したらしい跡や、いたずらで塗ったような鮮やかなコバルトブルーに、長い年月の間にだれかが彫刻刀で彫り込んだのだろう。ローマ字の名前や、深い穴や、三角などの図形がくぼんで残されている。大きな窓からの光がそれに陰影を付け加えて、抽象画のようにも見えた。
 教室の隅には折りたたまれたイーゼルが雑に積まれていて、その革のバンドや、銀色の金具が陽をあびて光っている。バンドはもう繰り返し留められたせいで、穴も伸びきって楕円になって、ゆるい波の形を描いているし、金具は細かい傷があって光といっても鈍い。一つだけ組み立てられたものがあって、背をこちらに向けるようにして置かれていた。それの上には、何かを留めているらしい銀色の目玉クリップがはみ出した画板が置かれている。どんな絵が描かれているのか、それともポスターかと思って回り込んでみるとそれはただの白紙だった。これからなんにでもなれる白い紙の表面を撫でてやる。かすかな凹凸の上を指が滑っていく。
 他の教室のように棚なども何もない部屋で、せいぜい黒板の右に色の三原色や、色相環を表すポスターが貼られているくらい。斜めの光のせいでどこかこの世の理屈ではない、夢の中の話のようだった。左には小さな扉があり、こちらはいわゆる準備室なのだろう、開けて入ってみると先ほどとは打って変わって極端に雑然とした室内だった。
 古い油のようなにおいがかすかにするのは絵の具のせいか粘土のせいか。詰め込まれた棚にはデッサン用の石膏でできた胸像や球、正方形などの形、偽の果実や凝った形の瓶が並び、また別のところには筆を洗うための小さな水入れや絵の具の箱、さらには使いさしらしい銀色のいびつな絵の具チューブがころころとはみ出している。大量のセロハンテープと台、並ぶ黄色いボンドの入れ物。ざる一杯の様々な大きさのハケ。ポスターカラーの鮮やかな瓶たち。細い横長のスペースには出番を待つ画用紙たちが詰め込まれていて、その前の大きな丸い筒のようなものに丸めた大きな紙のいろいろな色、大きさのものが投げ入れられ、かすかに開いた隙間にはなぜか錆だらけのパイプいすがねじ込まれて、天井には誰かが作ったのか薄いスチロール製らしき飛行機の模型が糸で吊られてぶら下がっていた。さっきの妙にひらけた部屋との差に戸惑いながらも、人の頭の中を覗いたような奇妙な感覚に心が躍る。何かを作るためにはすべてを飲み込んだ部屋がなくてはいけないのだと一人で納得し、自分の創作へ帰ろうと思った。